『知的生産の技術』を読みました

本書はノウハウを知るための本ではなく、ある種の問題提起をすることで、知的生産のための技術の開発や議論がもっと進むことを期待して書かれたもの。

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

以下、読んで気になったところと感想など。あとの引用はすべて本書からです。

ノートの情報は死蔵される

著者が情報の整理方法としていきついたのは「京大型カード」*1でした。川喜田二郎氏によるKJ法はこれをさらに大きく発展させたものだと紹介されています。

情報カード B6 京大式 C-602

情報カード B6 京大式 C-602

発想法―創造性開発のために (中公新書 (136))

発想法―創造性開発のために (中公新書 (136))

カードをデジタル化した場合、カードの作成や検索がしやすく、枚数が増えてきてもかさばらないなどのメリットはありますが、一覧性や組み換えといった部分では紙媒体の方がまだ優位と思われます。

しかしながら、id:kyokucho1989さんが書いた記事のコメントを見ると、京大型カードもすでに過去の産物だというイメージを持っている人も少なくないようです。

自分の現状としては、Evernoteとか情報をためこむ仕組みはあっても、それを整理したり振り返ったりする習慣が確立できていません。せっかく情報をためこんでも活用されないまま古くなり、結果として読んだ時間もノートを書くのも無駄になってしまう。京大型カードを使うかはともかくとして、どうやって情報を死蔵せず活用するかにもっと執着すべきなのだと思います。

本は何かを「言わないために読む」

著者は引用が少ないことで周囲から「本を読んでいない、読むことが嫌いなのではないか」などの指摘がされていたとのこと。実際はそうではなくて、「どこかの本に書いてあることなら、またおなじことを繰りかえす必要はない」、本は何かを「言うために読む」のではなく「言わないために読む」という理念によるもの。

ここに書いた「読書法」だって、じつは、大部分はどこにもかいてあることで、わたしがしらないだけかもしれない。それをおもうと、まったく身のすくむおもいである。ああ、はずかしい。

今は個人でも知識や情報、意見などを即座に発信できます。その反面、何か物を言おうとすれば「身のすくむおもい」をする可能性がより高くなったわけで、著者は2010年に亡くなっていますが、晩年はどういう印象を持っていたんでしょうか。

文章を文学から解放する

近代日本語が、文章を書道から解放することに成功したのは、大進歩であった。文章は、造形芸術から独立して、独自のものとなりはじめたのだ。わたしは、これをさらに一歩すすめて、文章を、文学から解放しなければいけないといっているのである。

どんな文章でも人に読まれる以上は「良い文章を書いてやろう」みたいな気持ちは少なからずあって、そういう見栄を捨てたら文章を書くことのハードルはもっと下がるんでしょうが、文学から解放されるどころか、文学よりの方向に進んでいるような気さえします。

まとめ

この本が出版されたのは1969年ですが、これからは情報の時代であること、会社には次々と新しいシステムが導入されていくが、それを使う個人の行動様式が追いついていない。といった指摘が冒頭でされていて、45年経った今となんら変わりがない印象です。

社会的・文化的条件の変化に応じて、知的生産技術のシステムも大きくかわるに違いない。

将来コンピューターを使うことが時代遅れになる日が来たとしても、どうやって知的生産と向き合っていくかを考えるのは、永遠に取り組むべき課題なのかもしれません。

*1:著者が作った記録用のカードが後付けで「京大型カード」と呼ばれるようになった